前回『ドゥー・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス』を紹介したのなら、もうこの曲も紹介しないわけにはいかないでしょう。
そうです、USA・フォー・アフリカの『ウィー・アー・ザ・ワールド』です。
1984年暮れから1985年初頭にかけて、バンド・エイド・プロジェクトが大成功を収めたものだから、「イギリスがやるなら俺たちも」と言って始まったのが、このプロジェクト。
当初は、「アメリカ版・バンド・エイド」なんて言われていましたが、このプロジェクトが大成功を収めると、そういった比喩表現も通用しなくなってしまいました。

さて、このUSA・フォー・アフリカ・プロジェクトには、いろいろな逸話がありますが、なかでも有名なのが、シンディ・ローパーのライバルであったマドンナが、マイケル・ジャクソンのライバルであったプリンスが、それぞれこのプロジェクトには参加していないんですね。
プリンスに関しては、やはりマイケルとの関係での不参加が噂されましたが、どうやら「何かのトラブルに巻き込まれて参加できなかった」というのが有力な説のようです。
その証拠に、プリンス・ファミリーの一員であるシーラ・Eが、このプロジェクトに参加しています。
ちなみに、プリンスが参加できなかったために、本来であれば彼が歌うパートをマイケルが歌ったというエピソードもあるとか。
そしてもうひとり、マドンナの不参加ですが、これに関しては、詳細が明らかになっていません。
ただ、私が見る限り、彼女は他の誰よりも我が強いアーティストでしたから、そのことが影響したのかなとも思ったりです。

ところで、そのライバル関係にあったマイケルとプリンスですが、そのことに関して面白いトリビアを見つけました。
最後に、それを引用させていただきたいと思います。

プリンスはスポーツ万能ですが、卓球にも自信があったようです。ペイズリーパークスタジオにはバスケットゴールやビリヤード台のほかに卓球台があることが知られています。そんなプリンスが80年代後半、同じスタジオに居合わせたマイケルを卓球に誘いました。マイケルは卓球に関しては初心者だったようですが、プリンスは一切容赦無くマイケルを叩きのめしました。すごすごと退散するマイケル、プリンスは勝ち誇ってマイケルを小馬鹿にするような悪態を付いたそうです。実に大人気無いですが、二人とも負けん気は強そうですよね…。


引用元:partymind|プリンストリビア





初登場は1985年3月23日の21位。
同年4月13日より4週連続1位を記録しています。


<<1位を記録したときのヒットチャートはこちら>>
(星船さんのブログより)


和訳版はこちら。



<<音時さんによる和訳はこちら>>

こちらは希代のテノール歌手ルチアーノ・パヴァロッティ主催のチャリティ・イベント『パヴァロッティ&フレンズ』で歌われた『ウィー・アー・ザ・ワール』。
オリジナル・メンバーであったライオネル・リッチーのほかに、グロリア・エステファン、ジョー・コッカー、BB・キング、マライア・キャリー、リッキー・マーティン、ボーイゾーンなどが参加。
ただ、主催者であるパヴァロッティが別格過ぎて、かえって浮いちゃってる感も…